はじめに
最近、「人的資本経営」という言葉を耳にする機会が増えました。新聞やニュース、企業の統合報告書などでも取り上げられることが多くなっています。
もっとも、実際には「人的資本経営とは何か」「自社にどのように関係するのか」といった点を、明確に理解できている企業はまだ多くありません。
そこで本記事では、人的資本経営の基本的な考え方を整理し、なぜ今このテーマが重要なのかを、実務の視点から解説します。
人的資本経営とは?
人的資本経営とは、人材を単なる「コスト」ではなく、価値を生み出す「資本」として捉え、企業価値の向上につなげていく考え方です。
従来、多くの企業では人件費は「コスト」として扱われ、できるだけ抑える対象とされがちでした。業績が悪化した際には、削減の対象と考えられることも少なくありませんでした。
しかし、この考え方には限界があります。なぜなら、企業の競争力の源泉は、最終的には「ヒト」にあるからです。商品やサービスを生み出すのも、顧客との関係を築くのも、現場を支えるのも、すべては人材です。
そのため現在では、人材に適切に投資し、その能力や価値を最大限に引き出すことが、企業の持続的な成長につながるという考え方が重視されるようになっています。これが、人的資本経営の出発点です。
なぜ今、人的資本経営なのか
人的資本経営が急速に注目されている背景には、いくつかの大きな環境変化があります。
1.人材不足の深刻化
少子高齢化の進展により、労働力人口は減少しています。企業は採用活動を行っても、必要な人材を十分に確保できない状況に直面しています。
また、採用できたとしても、早期に離職してしまうケースも珍しくありません。もはや「採用すれば解決する」という時代ではなくなっています。
2.転職市場の活性化
終身雇用を前提とした働き方は大きく変化し、転職は一般的なキャリア選択となりました。特に若手人材は、「成長できるか」「スキルが身につくか」「評価が公平か」といった観点で企業を選ぶ傾向が強まっています。
言い換えれば、企業は人材を選ぶ側であると同時に、人材から「選ばれる側」にもなったということです。
3.投資家・社会からの評価の変化
企業の評価は、売上や利益といった財務情報だけでなく、非財務情報にも広がっています。その中でも注目されているのが「人的資本」です。
たとえば、離職率、女性管理職比率、人材育成への投資額などが開示の対象として重視されるようになっています。つまり、「人をどう活かしているか」「人材にどう向き合っているか」が、企業価値に直結する時代になってきているのです。
人的資本経営は「開示対応」ではない
人的資本経営というと、「情報開示への対応」というイメージを持つ方もいるかもしれません。確かに、上場企業を中心に、人的資本に関する情報開示の重要性は高まっています。
しかし、それはあくまで結果の一つにすぎません。
本質は、人材戦略をどのように設計するかにあります。データを整備し、指標をそろえること自体が目的ではなく、そのデータをもとに組織の課題を把握し、改善につなげていくことが重要です。
人的資本経営とは、「何を開示するか」ではなく、「人を活かす仕組みをどうつくるか」という経営そのものの問題だといえます。
人的資本経営の本質
人的資本経営の本質は、「人を活かす仕組みを設計すること」にあります。
そのためには、少なくとも次のような要素が重要になります。
- 評価制度
- 賃金制度
- 配置(人材配置)
- 育成(教育・成長支援)
もっとも、これらが個別に存在しているだけでは十分ではありません。重要なのは、それぞれの制度がつながっていることです。
たとえば、評価制度では成果を重視しているにもかかわらず、賃金制度では年功的な運用が続いている場合、従業員にとっては納得感のある仕組みにはなりません。また、育成を重視すると言いながら、配置が適切でなければ、せっかく育てた人材が十分に力を発揮できないこともあります。
このように、評価・賃金・配置・育成が相互に連動し、全体として整合的に設計されていることが、人的資本経営においては重要です。
よくある誤解
人的資本経営については、いくつかの誤解も見受けられます。
研修を増やせばよい
もちろん育成は重要ですが、研修を増やすだけで人的資本経営になるわけではありません。研修で得た学びを評価や配置にどうつなげるかまで考えなければ、効果は限定的です。
評価制度を作ればよい
評価制度の整備は大切ですが、制度は作るだけでは機能しません。評価基準が曖昧であったり、管理職ごとに運用がばらついたりすれば、むしろ不満の原因になります。
エンゲージメントを上げればよい
エンゲージメント向上も重要なテーマですが、それ自体が目的化してしまうと本質を見失います。評価への不満、成長機会の不足、配置のミスマッチなど、根本原因を解決しなければ改善は長続きしません。
これらに共通するのは、「部分最適」にとどまっていることです。人的資本経営では、個別施策ではなく、組織全体の設計として考えることが求められます。
人的資本経営が目指す状態
人的資本経営が実現すると、企業はどのように変わるのでしょうか。
それは、「人が辞めない会社」というよりも、「人が活躍し続ける会社」に近い姿です。
重要なのは、単に定着率を高めることではなく、従業員が能力を発揮し、成長し、適切に評価される状態をつくることです。
たとえば、
- 評価基準が明確である
- 役割や期待が明確である
- 成長の機会がある
- 成果や役割に応じて適切に報われる
このような環境が整っていれば、従業員は納得感を持って働きやすくなります。その結果として、離職率の低下や生産性の向上につながっていきます。
実務での第一歩
人的資本経営というと、大規模な人事制度改革をイメージされることもありますが、必ずしも最初からそこまで行う必要はありません。
まずは、自社の現状を把握することから始めるのが現実的です。
たとえば、
- なぜ人が辞めているのか
- 評価と賃金は連動しているか
- 部署ごとに離職率や働き方に偏りはないか
- 管理職によって評価運用に差が出ていないか
こうした点を整理するだけでも、組織の課題はかなり見えてきます。特に、退職者の多い部署、評価に対する不満が多い部門、長時間労働が常態化している職場などは、人的資本経営の観点から優先的に見直すべき対象といえるでしょう。
「見える化」は、人的資本経営の出発点です。
社会保険労務士の役割
人的資本経営は、人事制度の設計だけでは完結しません。労務リスクとも密接に関係しています。
たとえば、
- 評価制度に合理性・納得性があるか
- 賃金制度の見直しが不利益変更に当たらないか
- 配置転換や役割変更が適法に行われているか
といった点を十分に検討せずに制度改定を進めると、トラブルにつながる可能性があります。
その意味で、人的資本経営は「戦略」と「法務・労務」の両立が求められる領域です。社会保険労務士は、制度設計と労務管理の両面から企業を支援できる専門家として、重要な役割を果たします。
まとめ
人的資本経営とは、単なる流行語ではなく、これからの企業経営の前提となる考え方です。
人材を単なるコストとしてではなく、価値を生み出す資本として捉え、その力を最大限に活かす仕組みを整えること。これが人的資本経営の基本です。
そして、その実現には、評価・賃金・配置・育成といった制度を個別に整えるだけでなく、それらを全体として整合的に設計し、運用していく視点が欠かせません。
この視点を持つことで、企業の成長のあり方は大きく変わっていきます。
次回予告
第2回では、「なぜ今、人的資本経営が必要なのか」について、より具体的に解説します。
最後に
「人的資本経営に取り組みたいが、何から始めればよいか分からない」
「制度はあるものの、うまく機能していない気がする」
「評価制度と賃金制度の連動に課題を感じている」
そのような場合には、まず現状の可視化から始めることが重要です。
当法人では、評価制度・賃金設計・労務管理を含めた人的資本経営の実務設計支援を行っています。ご関心のある方は、お気軽にご相談ください。
かつては、「良い企業に入れば幸せになれる」「個性を抑えて企業に適応することが幸せにつながる」と考えられていた時代もありました。けれども今は、働くヒトそれぞれが持つ多様な個性や能力を活かし、そのヒトらしく活躍できる企業こそが、真に良い企業と評価される時代になってきているのではないでしょうか。

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