賃金制度は「人材投資」の入口でもある
はじめに
これまでの記事では、人的資本経営の基本的な考え方や必要性、そして「評価・賃金・配置・育成」という4つの要素が相互に連動することの重要性を見てきました。前回は、その中でも土台となる「評価制度」について、会社が何を重視し、どのような行動や成果を求めるのかを示す仕組みであることを整理しました。
今回は、その評価制度とも深くつながる「賃金制度」について考えていきます。
賃金制度というと、「給与をどう決めるか」「昇給をどうするか」といった実務上のルールとして捉えられがちです。もちろんそれも重要ですが、人的資本経営の観点から見ると、賃金制度は単なる支払いの仕組みではありません。
賃金制度は、会社が「人に何を期待し」「何に対して報い」「どのような働き方を良しとするのか」を映し出す制度です。言い換えれば、賃金制度には、その会社の人材観や組織観が色濃く表れます。
本記事では、人的資本経営において賃金制度がなぜ重要なのか、どのような視点で設計・見直しを考えるべきかを、実務の視点から整理します。
賃金制度は「いくら払うか」だけの問題ではない
賃金制度の議論になると、どうしても「金額」に目が向きがちです。たとえば、同業他社と比べて高いか低いか、昇給幅が十分か、賞与水準がどうかといった点です。
もちろん、採用力や定着率を考えるうえで、賃金水準そのものは重要です。しかし、人的資本経営の視点では、それ以上に大切なのが「何に対して賃金を支払っているのか」という点です。
たとえば、年齢や勤続年数に応じて賃金が上がる仕組みなのか、担当する役割や責任に応じて決まる仕組みなのか、成果や評価結果がどの程度反映されるのかによって、従業員が会社から受け取るメッセージは大きく変わります。
賃金制度は、会社の価値観を最も具体的に伝える制度の一つです。従業員にとって、評価の言葉以上に強く伝わるのが、最終的な賃金や処遇だからです。
だからこそ、人的資本経営において賃金制度は、「払うための制度」ではなく、「人をどう活かしたいかを示す制度」として捉える必要があります。
なぜ人的資本経営で賃金制度が重要なのか
人的資本経営では、人材をコストではなく、価値を生み出す資本として捉えます。そのとき、賃金制度は単なる費用管理の仕組みではなく、人材の活躍や成長を支える仕組みでなければなりません。
賃金制度が重要なのは、主に次の三つの理由からです。
1.評価を現実の処遇に結びつけるから
前回扱った評価制度は、会社が何を重視するかを示す仕組みです。しかし、評価制度だけでは不十分です。評価結果が現実の処遇にある程度反映されてはじめて、制度全体に説得力が生まれます。
どれだけ立派な評価制度を整えていても、賃金にまったく反映されないのであれば、従業員にとっては「結局何も変わらない」と感じられるかもしれません。逆に、賃金だけが機械的に変動し、その理由が見えない場合には、不信感や不公平感が生まれやすくなります。
賃金制度は、評価制度を現実の処遇につなぐ橋渡しの役割を果たします。
2.従業員の納得感に直結するから
賃金は、生活に直結するものであると同時に、自分が会社からどう評価されているかを実感する場面でもあります。
従業員が「自分の役割や貢献に対して、適切に報われている」と感じられるかどうかは、モチベーションや定着に大きな影響を与えます。反対に、「頑張っても変わらない」「責任は重いのに報いが見合っていない」と感じれば、不満や離職意向につながりやすくなります。
人的資本経営は、人材の活躍を促す経営です。その前提として、賃金制度に一定の納得感があることは欠かせません。
3.会社の求める行動を強めるから
賃金制度は、どのような行動や役割が報われるのかを通じて、組織全体の行動にも影響を与えます。
たとえば、短期成果だけを強く反映する仕組みであれば、長期的な育成やチーム貢献よりも、目先の数字を追う行動が強くなるかもしれません。反対に、年功的な運用が強すぎれば、挑戦や変化への意欲が弱まりやすくなる可能性もあります。
賃金制度は、人に支払う仕組みであると同時に、組織の行動を方向づける仕組みでもあるのです。
どのような賃金制度が「良い制度」なのか
では、人的資本経営の観点から見て、良い賃金制度とはどのようなものでしょうか。
企業によって事業内容や組織文化、人材構成は異なるため、唯一の正解があるわけではありません。しかし、少なくとも次のような視点は重要です。
1.何に対して賃金を支払うのかが明確であること
まず大切なのは、「何に対して賃金を支払うのか」が制度上ある程度明確であることです。
賃金が、年齢や勤続に応じて決まるのか、役割や職務に応じて決まるのか、成果や能力に応じて決まるのかが不明確だと、従業員にとって制度が分かりにくくなります。
もちろん、実際には複数の要素を組み合わせて設計することが一般的です。しかし、どの要素を重視しているのかが見えないと、納得感は得にくくなります。
たとえば、「役割を重視する」と言いながら、実際には年次による差が大きい場合、制度のメッセージと運用実態がずれてしまいます。逆に、「成果を反映する」としていても、その評価基準が曖昧であれば、賃金制度全体への信頼は揺らぎます。
2.評価制度と整合していること
賃金制度は、評価制度と切り離して考えることはできません。
評価制度では成果や行動を重視しているのに、賃金制度ではその差がほとんど反映されない。あるいは、評価制度上はチーム貢献を重視しているのに、賃金制度では個人業績だけが強く反映される。このような状態では、制度同士のメッセージがねじれてしまいます。
人的資本経営では、評価・賃金・配置・育成がつながっていることが重要でした。賃金制度についても、評価制度と整合しているかどうかは、必ず確認すべきポイントです。
3.役割や責任とのバランスが取れていること
賃金制度を考えるうえでは、従業員が担っている役割や責任とのバランスも重要です。
現場では、肩書や役割が変わっているにもかかわらず、賃金制度がそれに追いついていないケースが少なくありません。特に、組織の成長過程にある企業では、従来の賃金体系のまま、実際の責任だけが重くなっていることがあります。
そのような状態では、責任と処遇のバランスが崩れ、管理職登用への消極姿勢や、優秀な人材の流出につながることがあります。
役割や責任の大きさに応じて、一定の処遇上の違いが説明できる制度になっているかは、人的資本経営において重要な観点です。
4.持続可能であること
人的資本経営の観点から賃金制度を考える際に見落とされがちなのが、「持続可能性」です。
どれだけ理念として望ましく見えても、会社の収益構造や成長見通しに照らして維持できない制度では、長期的には機能しません。人的資本経営は、人に投資する経営ですが、それは無制限に人件費を増やすことを意味するわけではありません。
大切なのは、企業の経営実態に合った形で、納得感と持続可能性のバランスを取ることです。従業員の期待に応えながら、企業として継続的に運用できる制度であることが必要です。
よくある賃金制度の課題
実務の現場では、賃金制度について次のような課題がよく見られます。
一つは、制度が長年見直されず、現在の組織や役割実態に合わなくなっているケースです。もともとは合理的だった仕組みでも、事業内容や組織体制が変わる中で、制度と現場の実態にずれが生じることがあります。
また、「なんとなく昇給する」「なんとなく役職手当が決まっている」といったように、制度の考え方が曖昧なまま運用されていることもあります。この場合、従業員にとっては、なぜ差がつくのかが見えにくくなります。
さらに、評価制度との連動が弱く、評価しても処遇に結びつかない、あるいは処遇差はあるが根拠が見えないといった問題も少なくありません。
このような状態では、賃金制度が人的資本経営の基盤になるどころか、不信感や離職の要因になってしまうことがあります。
賃金制度と「ジョブ型」「メンバーシップ型」
近年、賃金制度の議論では、「ジョブ型」や「メンバーシップ型」といった言葉が使われることも増えています。
ジョブ型は、職務や役割を明確にし、それに応じて処遇を決める考え方です。一方、メンバーシップ型は、職務を限定せず、組織の一員として幅広い役割を担うことを前提に処遇を考える傾向があります。
ただし、実務上は、どちらか一方に完全に割り切れる企業ばかりではありません。多くの企業では、両者の要素を組み合わせた運用が行われています。
大切なのは、流行する言葉に合わせることではなく、自社の組織運営や人材活用の実態に合った制度を設計することです。
人的資本経営にとって重要なのは、「どの考え方を採るか」そのものではなく、その制度が人材の活躍と企業の成長につながっているかどうかです。
実務でまず見直したいポイント
賃金制度を見直す際には、最初から大きく作り替える必要はありません。まずは、自社の制度と実態の間にどのようなずれがあるかを把握することが大切です。
たとえば、次のような点は確認しやすいポイントです。
- 賃金の決まり方が従業員に伝わっているか
- 評価結果と処遇の関係に納得感があるか
- 役割や責任と賃金のバランスが取れているか
- 制度の考え方と実際の運用がずれていないか
- 将来的にも継続可能な制度になっているか
特に、中小企業では、制度よりも個別対応で運用してきた結果、全体としての一貫性が失われていることがあります。そのような場合でも、まずは「今、何に対して賃金を払っているのか」を整理するだけで、見直しの方向性が見えてくることがあります。
賃金制度は「人材投資」の入口でもある
人的資本経営の視点では、賃金制度は単に過去の貢献に報いる仕組みではありません。将来への投資の入口でもあります。
たとえば、成長を期待する役割に就く人材に対して、適切な処遇を用意することは、その人材への投資でもあります。また、専門性やマネジメント力を高めた人材が、適切に報われる仕組みを持つことは、従業員に対して「成長することに意味がある」と伝えることにもつながります。
この意味で、賃金制度は、過去の結果を精算する制度であると同時に、未来の行動や成長を促す制度でもあります。
まとめ
賃金制度は、単に給与額を決めるためのルールではありません。人的資本経営においては、「会社が人に何を期待し、何にどう報いるのか」を最も具体的に示す仕組みです。
評価制度と整合し、役割や責任とのバランスが取れ、従業員に一定の納得感があり、かつ持続可能であること。こうした要素を備えた賃金制度は、人材の活躍を支え、組織の方向性を明確にする力を持ちます。
人的資本経営を進めるうえでは、賃金制度を単なる費用管理の仕組みとしてではなく、「人への考え方」を映す制度として見直すことが重要です。そこから、企業としてどのような人材に活躍してほしいのか、どのような組織を目指すのかが、より明確になっていくはずです。
次回予告
第6回では、「配置」について取り上げます。人的資本経営において、なぜ人材配置が重要なのか、適材適所やキャリア形成の視点をどう実務に落とし込むべきかを整理していきます。
最後に
「賃金制度が昔のままで、今の役割実態に合っていない」
「評価制度はあるが、処遇とのつながりに納得感がない」
「人件費を抑えたい一方で、人材の定着や成長も重視したい」
そのような場合には、賃金制度を単なる給与ルールとしてではなく、人材活用と経営の両面から見直すことが重要です。
当法人では、評価制度との連動、役割に応じた処遇設計、労務リスクに配慮した賃金制度の見直しを含め、人的資本経営の実務設計支援を行っています。ご関心のある方は、お気軽にご相談ください。

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