第10回 人的資本経営は何から始めるべきか(シリーズ「人的資本経営」)―制度を増やす前に、自社の課題を見える化する―

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はじめに

これまでの連載では、人的資本経営とは何か、なぜ今必要とされているのか、そして「評価・賃金・配置・育成」という4つの要素について解説してきました。

さらに、人的資本経営がうまくいかない会社の共通点や、人が辞める会社に見られる組織上の課題についても整理してきました。

ここまで読んでいただいた方の中には、人的資本経営の重要性は理解できたものの、

「結局、何から始めればよいのか」

「評価制度や賃金制度をすぐに変える必要があるのか」

「自社のような中小企業でも取り組めるのか」

と感じている方もいるかもしれません。

人的資本経営という言葉からは、大規模な制度改革や多額の投資をイメージしがちです。しかし、最初から新しい制度を導入したり、すべてを一度に見直したりする必要はありません。

人的資本経営の第一歩は、制度を増やすことではなく、自社の人材や組織が現在どのような状態にあるのかを正しく把握することです。

本記事では、人的資本経営を実務で始めるための具体的な手順と、取り組む際の注意点を整理します。

人的資本経営は「現状把握」から始まる

人的資本経営に取り組もうとすると、すぐに評価制度の改定や研修制度の整備を考える企業があります。

もちろん、制度の見直しが必要な場合もあります。しかし、自社の課題が明確になっていない段階で制度を変えても、本来解決すべき問題とずれた施策になる可能性があります。

たとえば、若手の離職が多いことを理由に研修を増やしたとしても、実際の原因が上司との関係や長時間労働、評価への不満であれば、研修だけでは改善しません。

また、評価制度への不満があるとして制度を細かく作り直しても、問題の中心が評価者の説明不足や管理職間の運用差にあるなら、制度改定よりも先に運用改善が必要です。

つまり、人的資本経営では、最初に「どの制度を入れるか」を考えるのではなく、「自社では何が起きているのか」を確認する必要があります。

現状把握を行う際には、経営者や人事担当者の感覚だけで判断しないことも重要です。組織の状態は、データと現場の声の両面から確認する必要があります。

第1段階 経営課題と人材課題を整理する

最初に行うべきことは、自社の経営課題と人材課題を整理し、それらがどのようにつながっているかを考えることです。

人的資本経営は、人事部門だけの施策ではありません。会社の経営戦略を実現するために、どのような人材が必要で、その人材をどう確保し、育成し、活かすかを考える取り組みです。

たとえば、会社に次のような経営課題があるとします。

  • 新規事業を立ち上げたい
  • 営業力を強化したい
  • 管理職層を厚くしたい
  • デジタル化を進めたい
  • サービス品質を高めたい

これらの課題は、いずれも最終的には人材の問題につながります。

新規事業を任せられる人材がいない、営業担当者が育っていない、管理職候補が不足している、デジタル分野の知識を持つ人材がいない、といった状態であれば、経営戦略を実行することは困難です。

そこで、まずは次のような問いを考えます。

  • 今後、会社として何を実現したいのか
  • そのために、どのような人材が必要なのか
  • 現在、その人材は社内にいるのか
  • 足りない能力や役割は何か
  • 採用で補うのか、社内で育てるのか

このように、経営課題と人材課題を一体で整理することが、人的資本経営の出発点です。

第2段階 人材に関するデータを見える化する

次に、人材や組織の状態をデータで把握します。

人的資本経営では、感覚や印象だけではなく、事実に基づいて課題を捉えることが重要です。

たとえば、「最近、人が辞めやすくなった」と感じていても、実際に確認すると、退職者が特定の部署や特定の管理職の下に集中していることがあります。

また、「残業が多い会社」という印象があっても、部署別に見ると、一部の部門や一部の従業員だけに業務負荷が集中している場合があります。

確認したいデータとしては、たとえば次のようなものがあります。

  • 採用人数
  • 応募者数
  • 内定辞退率
  • 入社後の早期離職率
  • 年代別・部署別の離職率
  • 平均勤続年数
  • 残業時間
  • 有給休暇の取得状況
  • 休職者数
  • 評価結果の分布
  • 昇給・昇格の状況
  • 研修の受講状況
  • 管理職に占める男女の割合
  • 部署別の人員構成

すべての数値を最初からそろえる必要はありません。まずは、自社の課題に関係するデータから確認すれば十分です。

離職が課題であれば、離職率だけでなく、どの部署、どの年代、どの勤続年数の人が辞めているかまで見る必要があります。

育成が課題であれば、研修の実施回数だけでなく、誰がどのような経験を積み、どの役割に進んでいるのかを確認することが大切です。

数字を集めることが目的ではありません。数字から、自社の組織にどのような偏りや変化があるのかを読み取ることが重要です。

第3段階 従業員の声を確認する

データだけでは把握できない問題もあります。

たとえば、離職率がそれほど高くなくても、従業員の多くが評価制度に不満を持っていることがあります。また、残業時間の数値は低くても、業務中の負担感や心理的な疲弊が大きい場合もあります。

そのため、人的資本経営では、従業員の声を確認することも重要です。

方法としては、次のようなものがあります。

  • 従業員アンケート
  • エンゲージメント調査
  • 1on1ミーティング
  • 評価面談
  • 管理職へのヒアリング
  • 退職者へのヒアリング
  • 入社後面談
  • 部署別の意見交換会

特に有効なのが、退職者や退職予定者へのヒアリングです。

退職届には「一身上の都合」と書かれていても、実際には評価への不満、上司との関係、業務負荷、キャリアへの不安など、さまざまな事情がある可能性があります。

ただし、退職時になって初めて話を聞いても、本音が十分に得られないことがあります。そのため、入社後の一定期間、異動後、昇進後など、節目ごとに面談を行うことも有効です。

従業員の声を聞く際に重要なのは、意見を集めるだけで終わらせないことです。

従業員がアンケートに回答しても、その後何も変化がなければ、「答えても意味がない」と感じるようになります。すべての要望に応えることはできなくても、どのような意見があり、会社として何を検討するのかを伝えることが大切です。

第4段階 評価・賃金・配置・育成のつながりを点検する

自社の状態が見えてきたら、次に評価・賃金・配置・育成の4つがどのようにつながっているかを確認します。

人的資本経営がうまく機能しない大きな理由の一つは、それぞれの制度が別々に運用されていることです。

たとえば、次のような状態がないか確認します。

  • 評価で重視している内容が賃金や昇進に反映されていない
  • 高く評価された人材の強みを活かす配置が行われていない
  • 評価で指摘された課題が育成計画につながっていない
  • 研修で身につけた能力を活かせる仕事が与えられていない
  • 役割や責任が増えても処遇が変わっていない
  • 配置転換の目的が本人に説明されていない

こうしたズレがあると、従業員にとって制度全体が分かりにくくなります。

たとえば、「挑戦する人材を評価する」と会社が掲げていても、失敗した人が低く評価されるのであれば、従業員は挑戦しなくなります。

また、「人材育成を重視する」と言いながら、管理職が部下を育てても自身の評価に反映されないのであれば、育成は後回しになりやすくなります。

人的資本経営では、会社が掲げる方針と、実際の制度や運用が一致していることが重要です。

第5段階 優先順位を決める

課題を整理した後は、何から改善するかの優先順位を決めます。

人的資本経営では、すべての制度を同時に変更する必要はありません。むしろ、一度に多くの施策を始めると、現場が混乱し、どの取り組みが有効だったのかも分からなくなります。

優先順位を決める際には、次のような視点が参考になります。

  • 経営に与える影響が大きいか
  • 従業員への影響が大きいか
  • 緊急性が高いか
  • 比較的取り組みやすいか
  • 他の課題の改善にもつながるか

たとえば、特定部署で離職や休職が相次いでいる場合には、その部署の業務負荷や管理職のマネジメント状況を優先的に確認する必要があります。

評価制度への不満が広がっている場合でも、すぐに制度全体を作り直すのではなく、評価基準の説明、評価者研修、面談方法の改善から着手できることがあります。

大切なのは、最も見栄えのよい施策を選ぶことではなく、自社の問題に最も効果がある施策から始めることです。

第6段階 小さく始めて、改善を続ける

人的資本経営は、一度制度を作れば完成するものではありません。

事業環境、従業員構成、働き方、求められる能力は変化していきます。そのため、制度や施策も定期的に見直す必要があります。

最初から完璧な制度を作ろうとすると、設計に時間がかかり、現場で運用しにくい複雑なものになることがあります。

そこで、まずは対象部署や対象者を限定して試行し、その結果を見ながら修正していく方法も有効です。

たとえば、

  • 一部の管理職を対象に評価者研修を実施する
  • 特定部署で1on1を試行する
  • 若手社員を対象に定期面談を始める
  • 退職理由の分析を半年ごとに行う
  • 評価結果と育成計画をつなげる
  • 部署別に残業時間や離職率を確認する

といった取り組みであれば、大きな制度改定を行わなくても始めることができます。

重要なのは、実施した後に結果を確認することです。

取り組みを始めたことで何が変わったのか、現場の負担はどうだったのか、従業員の反応はどうだったのかを確認し、必要に応じて改善します。

この「実施・確認・改善」の循環を続けることが、人的資本経営を定着させるうえで重要です。

人的資本経営で見るべきKPI

人的資本経営を進める際には、KPIを設定することがあります。

KPIとは、取り組みの進捗や成果を確認するための指標です。

人的資本に関するKPIとしては、たとえば次のようなものがあります。

  • 離職率
  • 入社3年以内の離職率
  • 有給休暇取得率
  • 平均残業時間
  • 管理職に占める女性割合
  • 研修受講率
  • 従業員満足度
  • エンゲージメントスコア
  • 内部登用率
  • 評価面談の実施率
  • 1on1の実施率
  • 管理職研修の受講率

ただし、KPIを設定すること自体が目的になってはいけません。

たとえば、研修受講率が100%になっても、研修内容が実務に活かされていなければ意味はありません。また、離職率が低くても、従業員が成長せず、組織が停滞している可能性もあります。

そのため、KPIは自社の経営課題や人材課題に合わせて設定する必要があります。

また、数値だけを単独で見るのではなく、その背景にある事情も確認することが重要です。

中小企業にも人的資本経営は必要か

人的資本経営は上場企業や大企業のためのものだと思われることがあります。

確かに、人的資本に関する情報開示は、上場企業を中心に議論されてきました。しかし、人材をどう確保し、育て、活かすかという課題は、企業規模にかかわらず存在します。

むしろ中小企業は、一人の従業員が組織に与える影響が大きいため、人的資本経営の重要性は高いともいえます。

優秀な人材が一人退職したことで、業務が回らなくなることがあります。管理職一人のマネジメントが、部署全体の定着や生産性に大きな影響を与えることもあります。

中小企業で人的資本経営を進める場合、複雑な制度を導入する必要はありません。

まずは、

  • 従業員の状況を把握する
  • 退職理由を分析する
  • 評価基準を説明する
  • 管理職の育成を行う
  • 配置や業務負荷の偏りを見直す
  • 従業員との対話の機会を増やす

といった、現実的な取り組みから始めることができます。

人的資本経営は、会社の規模ではなく、人を活かす経営を行う意思があるかどうかが重要です。

労務管理の土台を整えることも欠かせない

人的資本経営に取り組む際には、評価制度や育成制度だけでなく、基本的な労務管理が適切に行われていることも重要です。

どれだけ魅力的な人材戦略を掲げても、長時間労働が常態化している、休暇を取得しにくい、ハラスメントが放置されている、賃金や労働時間の管理が不十分であるという状態では、人材は安心して働くことができません。

人的資本経営は、人材の価値を高める取り組みですが、その前提には安全で適切な職場環境があります。

そのため、次のような基本事項も確認する必要があります。

  • 労働時間が適切に把握されているか
  • 時間外労働が特定の人に偏っていないか
  • 年次有給休暇を取得しやすいか
  • ハラスメント相談体制が機能しているか
  • 就業規則と実際の運用が一致しているか
  • 評価や処遇に不合理な差がないか
  • 育児や介護と仕事を両立できる環境があるか

人的資本経営と労務管理は別々のものではありません。適切な労務管理という土台があってこそ、人材への投資や活躍支援が機能します。

まとめ

人的資本経営を始めるにあたり、最初から大規模な制度改革を行う必要はありません。

まず必要なのは、自社の経営課題と人材課題を整理し、人材に関するデータと従業員の声から、現在の状態を見える化することです。

そのうえで、評価・賃金・配置・育成のつながりを確認し、どこに課題があるのかを把握します。そして、優先順位を決め、小さな取り組みから始め、結果を確認しながら改善を続けていきます。

人的資本経営は、制度を導入すること自体が目的ではありません。

人が成長し、能力や個性を活かして働き、その成果が企業の成長につながる状態をつくることが目的です。

そのために重要なのは、他社の制度をそのまま導入することではなく、自社の経営方針、組織の実態、従業員の状況に合った仕組みをつくることです。

人的資本経営に完成形はありません。環境や組織の変化に合わせて、継続的に見直し、改善していく経営そのものだといえるでしょう。

かつては、従業員が会社の仕組みに合わせることが求められていました。しかし、これからは、従業員が持つ多様な個性や能力を活かせるよう、会社の仕組みを整えることが求められます。

人が会社に合わせるだけではなく、人と会社がともに成長できる関係をつくること。それが、人的資本経営が目指す姿ではないでしょうか。

連載を終えるにあたって

本連載では、人的資本経営について、次の内容を取り上げてきました。

第1回では、人的資本経営の基本的な考え方を整理しました。

第2回では、人的資本経営が今必要とされる背景について解説しました。

第3回では、評価・賃金・配置・育成という4つの基本要素を取り上げました。

第4回から第7回では、それぞれの要素について詳しく解説しました。

第8回では、人的資本経営がうまくいかない会社の共通点を整理しました。

第9回では、人が辞める会社の背景にある組織課題を取り上げました。

そして今回は、人的資本経営を実際に何から始めるべきかについて解説しました。

人的資本経営は、難しい専門用語や特別な制度の話ではありません。

自社で働く人がどのような力を持ち、どのような環境であれば活躍でき、その成長を企業の成長にどうつなげるかを考えることです。

この連載が、自社の人材や組織について見直すきっかけになれば幸いです。

最後に

「人的資本経営に取り組みたいが、何から始めるべきか分からない」

「評価・賃金・配置・育成の制度がそれぞれ存在するが、うまくつながっていない」

「採用難や離職が続いており、組織の課題を整理したい」

そのような場合には、まず現在の人事制度や労務管理、人材データを整理し、自社の課題を見える化することが重要です。

当法人では、人事・労務の現状分析、評価制度・賃金制度の設計、人材配置、管理職育成、労務管理体制の整備を含めた人的資本経営の実務支援を行っています。

ご関心のある方は、お気軽にご相談ください。

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